先日、後学のためにと、雑誌に載っていたとある農家さんのインタビュー記事を読んだ。
細かな内容は忘れてしまったけれども、インタビューの中にあった「『楽』をしなければ農業なんて続かない」そんな言葉が心に引っかかった。
「そうだよな~農業って楽じゃないもんな~。だから農業をやってみようと思う人も少ないわけだし、つらい、しんどい、泥まみれの仕事だもんな…つらいと続かないもんな…」などと思いながら読んでいたのだが「いやいや文明は、人類は、楽をするために発展したのではないか?」と急に「文明」だの「人類」だのと大層なことを思いはじめた。
鉄を発見し、これは土を耕すのにイイっていうんで鍬が作られ、でも鍬で耕すのが大変だから、牛や馬を使おってみよう、その後エンジンが開発されてすごい馬力で早く深く耕すトラクターが誕生し…。そうなのだ!人類の発展と進歩は、どうやったら楽ができるか。その楽をするための叡智の結晶なのだ!そんなことを思っていた。
おそらくここ最近の暑さで、少し脳が溶けていたのかもしれない。
トラクターを使えば畑を耕すのも楽になる。でもトラクターは高い。
除草剤をまけば草刈りの手間が省ける。でもたくさんの除草剤をまくのも問題がある。
楽をするにもコストがかかるし、楽をしすぎるのもまた問題なのかもしれない。
ここ最近の農作業のメインはブドウの剪定(せんてい)である。
まぁ放っておいてもブドウは勝手に伸び、花を咲かせ実をつけるのだけれども、実を大きくし、丸々とした美味しいブドウを作るためには、ほかのブドウたちには犠牲になってもらわなければならない。今、小さく実をつけているブドウを少し切り取って、残っている実に栄養をいきわたらせるようにする。
この作業がつらい。
一本の木から伸びたブドウは頭上に枝葉を伸ばし、実をつける小さな花も見上げたところに咲いている。この花を手を伸ばしてハサミで一つずつ切っていくのだが、どうしたことか、肩が上がらないのだ。
「これが、ひょっとして…五十肩というものなのか?」
先日テレビを見ていたら、ブドウ農園を営む農家さんが、ブドウの剪定(せんてい)が楽になる、脚立のような台座を発明していた話題が紹介されていた。ブドウを剪定(せんてい)するのにちょうどよい高さのところで、背もたれに腰を預けて安定させ、サクサクとブドウの剪定をするその発明品を見て、素直に「これ欲しい!」と思った。
そう。楽に農作業をするための、ブドウ農家さんの叡智の結晶が、そこにはあったのだ。
(2021.06.11:コラム/遠藤洋次郎)