第15話 百姓ってのはどう?

「農業をする人」を意味する“百姓”という言葉は、差別的な表現で使われると言うことで放送禁止用語になっている。でもこれの言葉にはたくさん(百)の仕事(姓)という意味が込められている。姓(苗字)はもともとその人がどん仕事をしているのかを示す、肩書のようなものだった。

僕も「フリーアナウンサー」という肩書は掲げているけれども、勤めていたラジオ局がなくなってしまった手前、アナウンサーと言うのも少々はばかられる。

「で、最近ようじろうは何をしているの?」と、尋ねられることがある。一瞬言葉につまる。

WAVE CREATIONという会社の代表。声の仕事をしています。畑仕事も……。

「う~ん。結局自分は何をしているんだ?」と頭を抱えることもあったけど、

「最近の僕は“百姓”やってます」と答えてみようと心の中で準備している。

そう答えたところで相手は「???」という顔を浮かべるのも想像できるのだが…。

昔の人たちは畑仕事をしながら、空いた時間や冬の間にもいろいろな仕事をしていた。

大工や左官屋、畳屋。先生や医者もいたという。

自分の得意なこと、好きなことを生かして、生活の糧にしていた。

僕の近所を見回してみても、多くの農家は兼業農家だ。

本業をしっかりやりながら、田植えの時期や稲刈りの時期は休みを取って田んぼに出かける人もいる。僕も用水路の掃除をしたり、田植えの前にネズミ退治をしたり、人手が足りないからと言って稲刈りの手伝いに行ったこともある。

「うちは百姓だよ」という近所のおじさん。自分で農機具の修理もするし、風で吹き飛んだビニールハウスも直していた。もともと電気工事の仕事をしていたので手先が器用。困ったときには助けてもらっているし、とても尊敬している。

一つの道を究め、プロフェッショナルになるという思いも大切。

でも自分はいろんなことができる人になりたいな…と思う。

いろんな働き方があっていいと思うし、立派な肩書がなくっても、“百姓”をしていることは立派なことだ。

さてさて「自分は百姓だ」と言ってみたところで、自分のできることなどたかが知れている。

“百姓”と言うのならば自分のできること、できなくてもやってみたいことを100個あげようと思っても、悲しいかな、2個3個ぐらいしか書き出すことができない。

(2021.02.05:コラム/遠藤洋次郎)