第5話 何事もタイミング!?

今年の農園のハクサイは順調に大きくなっている。
「こんなに小さな葉っぱだったお前が、よくここまで大きくなったもんだ。うんうん。」
わが子の成長を見守る親心にも似た思い。
そんなまなざしでハクサイを見つめている。

去年のハクサイづくりは思うようにいかず、葉っぱは大きくなったけれども結球(葉っぱが丸まってボール状になっていく)しなかった。
気象条件などもあったが、種を蒔くタイミングを間違えていたのも原因の一つ。
今年は、ここだ!というタイミングで種を蒔き、今のところ天気の影響を大きく受けることもなく、大きくなっている。

さて問題は、どのタイミングで収穫しようか?と言うことである。

日に日に寒くなり、お鍋の恋しい季節である。
自分たちの育ててきたハクサイを、ドーンとお鍋に放り込んで、熱々のところをいただきたい。

寄せ鍋、水炊き、キムチ鍋、カモ鍋、石狩鍋、ミルフィーユ鍋。
土鍋から湧き上がる白い湯気。
出汁や具材の茹で上がるクツクツという音。
鍋恋しさに、脳裏には鍋を囲む食卓の風景が広がる。

「よし、今夜の鍋の主役は君だ!」
そう思って一つのハクサイに手を伸ばしたところ、知り合いの農家さんに
「それ、まだ大きくなるよ。残しておいた方がいい。」
と言われた。
「じゃあ、君だ!」
「ああ、それももうちょっと丸くなる。あとちょっとだな。」
「う~ん…じゃあ…。」

種を蒔くタイミングも重要であるが、収穫するタイミングも重要である。

このタイミングを逸してしまうと、美味しさの旬を逃してしまう。
物事には「今だ!」という瞬間がある。
「今がこのとき」という絶好のタイミング。
だから慌ててもしょうがないし、そうかと言って、のんびりもしていられない。
頭の中に「究極の鍋料理」の姿をイメージしながら、今日もハクサイの様子を観察する。
結球の引き締まり具合はどうか?
重さは?硬さは?
じっと、その瞬間を待ち構える。

「まだだ。もう少し大きくなる。いや、今じゃないのか?コレはイケるんじゃないか?」

ハクサイに囲まれた畑のまん中で、今日も一人、そんな葛藤を繰り返している。

(2020.11.20:コラム/遠藤洋次郎)

第4話 見てくれはアレだけれども

なんともいとおしい「地球外生命ダイコン」を掘り出した前回のお話でしたが、葉っぱの部分はおひたしにして、皮の部分はきんぴらに、そして実の部分はお味噌汁の具になり、すべて美味しくいただきました。

ただ、このダイコンが売り物になるか?といわれると、厳しい。
スーパーに並んでいるダイコン、青果店に並んでいるダイコン、隣の畑のダイコン。
眺めてみれば見事にスラっとした美人さんばかり。

ダイコンの絵を描いてみよう!
といわれたら多くの人は、「¥」こんな感じの絵を描く。
「ξ」こうは描かない。
「ξ」なダイコンは商品としては失敗だ。

失敗の経験は、もちろん次に生かさなければならない。

土づくりや種の蒔きかた、種を蒔くタイミングやその後のケアなど、ネットで調べてみたり、本を読んでみたり、近所の農家さんに聞いてみたりする。
もちろん、自然相手なので、次にうまくいくという保証はない。

なんで?どうして?水が足りない?台風のせい?
畑仕事に携わるのであれば、このトライ&エラーは毎年の起こりうることである。
おかげさまで、私の農園に参加しているみなさんは、採れた野菜を見ては大笑いする。

「ダイコン曲がってる(笑)」
「ズッキーニでかっ!(笑)」
「ハクサイに青虫いた!(笑)」
「ミミズ!(笑)」
「ナメクジ!(笑)」
みんな笑っている。

採れた野菜は持ち帰り、みなさんそれぞれ調理して、次に会う時にはどうやって食べたかの話題で盛り上がる。

「見てくれはアレだったけど、炒めたらおいしかった。」
「見てくれはアレだったけど、パスタに和えてみた。」
『見てくれはアレ』であっても、口に入ればどれも美味しい。
ましてや自分たちが育ててきたものとなると、味わいもひとしおだ。

どんなカタチの野菜であっても『失敗』はない。
と、いつだったか近所のおじさんがそう言ってくれた。
なので私も「美味しく食べられれば、立派なお野菜!」と思うことにしている。

でも、農園の管理人としては『見てくれはアレ』を何とかしたいものだけれども…。

(2020.11.13:コラム/遠藤洋次郎)

第3話 必死で生きている

夏に植えたダイコンが、やんちゃに育っている。
葉は青々と茂り、首元も青く、そして朝露に照らされキラキラ輝く純白のボディ。
いざ、掘り出してみると…

「!!!???」

二股、三股。
いや、これはもはや、足のこんがらがった、ダイコンには程遠い「地球外生命体」である。

土の中に小石があったりすると、生長の途中で根が分かれていき、あたかもそれが人間の足のように見える。
白いおみ足は、美しい女性を連想させるので、
私はそれを「Sexy Daikon」と呼んでいるが、
今回のダイコンにはみじんもSexyさは感じられない。

その原因を自分なりに考えてみた。

夏野菜を育てるときに、畑にじかに種を蒔くよりも、一回、育苗ポットに種を蒔いて、苗をつくり、苗が育ってきたところで畑に植える。
これが割と成功したので、ハクサイやキャベツ同様にダイコンもポット苗を作ってみた。
ほどよく葉が伸びたところで畑に植え替えたのだが、育て方の資料などを後になって読んでみると、ダイコンなどの「根」を育てるものは、植え替え厳禁なのだそうな。

「ようし!下に根をのばすぞ!」
と思っていたことろに、急に土の環境が変わると、

「ん?どっちに根をのばしたらいい?こっち?それともこっち?」
と戸惑うのだろう。

「オレ、こっちに伸びていくから、お前こっちに伸びていってくれよ!」
そんなダイコンの思惑も感じられる。

と、こんなことを書いていたら映画にもなったマンガ「寄生獣」を思い出した。

地球外生命体が人間の体内に乗り移り、意思を持ち、人間世界をパニックに陥れるというマンガ。主人公に寄生した生命体「ミギー」は生き残るために主人公の右手と共存していく道を選んだが…

今回掘り出してきたダイコンを眺めていると、彼らも生きていくために、生長していくために、必死なんだと言うことをひしひしと感じる。

そして、必死で生きようとする姿は、何ともいとおしい。

(2020.11.06:コラム/遠藤洋次郎)

第2話 エダマメでハーレム

エダマメに完全に胃袋をつかまれた!

新潟は食の宝庫。
もちろん『コシヒカリ』はその代表格だが、それぞれの市町村に、特色を持った美味しい食材があふれている。
東京へ帰れなくなってしまった原因の一つにこの新潟の『食』の豊かさがあることは否定できない。

なかでも『エダマメ』である。

新潟はエダマメの作付面積全国1位。
にもかかわらず、出荷額は全国7位。
つまり、新潟の人はつくったエダマメを独りじめする傾向にあるといえるだろう。
これは、私の居酒屋での注文の仕方にも当てはまる。
エダマメ一皿を、みんなでシェアすることはない。
一人一皿。
私の目の前に、エダマメ一皿がないとどうにも落ち着かない。
そして、黙々と食べながらビールを流し込む。至福の瞬間だ。
ああ、もう…
こうやって『エダマメ』と書いているだけで、唾液がたまってくる。

「新潟のエダマメは美味しい。それならば、自分でエダマメを育てればいいんだ!」

というわけで、農業を始めてから毎年エダマメを育てている。
さまざまな種類のエダマメは、その名前もユニークだ。

以前、ラジオの番組で農業に関するクイズを出題するというコーナーをやってみた。
その時出した問題。

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【ようじろうが今年育てたエダマメは次のうちどれ?】

1、越後姫
2、ゆあがり娘
3、ようじろうの嫁
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正解は2の「ゆあがり娘」

何とも艶っぽい、むしゃぶりつきたくなる名前じゃないか!
他にも「弥彦娘」「おつな姫」など、女の子の名前がついているものも多い。

その時、リスナーから、
「『ようじろうの嫁』を育ててみてはいかがでしょう?」
というメッセージが届いた。

「きっと『ようじろうの嫁』は実がふっくらしていて、甘みもあり、ナイスバディのエダマメに違いありません!」
もちろん『ようじろうの嫁』という品種はないが、来年はぜひ、実がふっくらしていて、甘みもある、ボンキュボンキュボン(豆は3つ)のナイスバディのエダマメを作ってみたい!

ついでに『ようじろうの恋人』『ようじろうの娘』『ようじろうの愛人』もつくって。
エダマメに囲まれたハーレムをつくるのだ!

(2020.10.30:コラム/遠藤洋次郎)

第1話 蒔かぬ種は生えぬ

この歳になって、畑を耕すことになるとは思わなかった。

20年前のようじろう青年に、
「君は20年後にクワ持って畑耕してるよ」
と伝えたところで、
「そんなことするわけないじゃん」
と笑って答えるに違いない。

ハクサイ、キャベツ、ダイコン、ニンジン、カブ、ホウレンソウ。
今の時期、僕は、これらの野菜の生長を見守っている。

本音を申せば、農業をやってみたいと思ったこともなければ、これまでも農業に携わったこともない。
土をいじったことがあるのは、小学生の頃のアサガオくらい。
それだって、観察日記を書かなきゃならないからしょうがなく育て、夏の旅行から帰ったら全部枯れていた。
なんだか切ない観察日記を提出したような気もする。

農業に対するイメージだって
「キツい」「汚い」「朝早い」
のマイナスのものばかり。
思い描いていた人生の青写真に『農業』というワードはこれっぽっちもなかった。

そこに訪れた人生の転換期。

やむにやまれぬ事情があって、昨今問題になっている、耕作放棄地を何とかしなきゃならないということもあって、
「えー・・・じゃあ、ちょっと土いじるだけですよ」
と、砂場遊びセットのようなスコップとバケツを持って、雑草ばかりの畑に行った。
それはまるで、
「えー・・・じゃあ、ちょっと一杯飲むだけですよ」
と、知らない土地の、怪しいスナックに連れていかれた気分であった。

それがどうだろう。
今朝もハクサイに
「おはよう」などと声をかけている。
「くたばれ、このアザミウマーーーー!」
と、害虫の知識も増えた。
『ちっ素』『リン酸』『カリウム』
なんて言葉を、中学生の理科の勉強の時以来口にしている。

農作業が楽しいか?
と問われれば、今もまだ何とも言えない。
楽しいと思うこともあるが、もちろん辛いこともあるし、メンドクサイと思うこともある。
ちゃんと育てられるか、ちゃんと稼げるのか?
このあたりも不安定だ。

『蒔かぬ種は生えぬ』

とにかく、まず種を蒔かなければ始まらない。
やってみなけりゃ分からない。
チャレンジすることにちょっと臆病にもなるお年頃。

でもこの歳になって改めて
「やってみなけりゃ分からない」ことを始めたことは、「何とも刺激的な体験だなぁ…」と、
野菜を眺めながらしみじみ思ったりもする。

(2020.10.23:コラム/遠藤洋次郎)