第10話 この冬の挑戦

ダイコンとハクサイの収穫を終え、冬野菜の収穫に向けての作業はひとまず終了。
今年もおかしなカタチのダイコン、虫いっぱいのハクサイが採れました。
それでも畑にはまだ、ニンジンやブロッコリー、ニンニク、タマネギ、キャベツが植わっているので、ひと冬こえて、春になって美味しくなるのをじっと待つことにしましょう。

さて、新潟も本格的な雪のシーズンが到来。

『晴耕雨読』という言葉があるように、晴れの日の畑仕事ははかどるけれども、雨や雪の日となると、正直、やることがなくなってしまう。
農家の皆さんは冬の間は何をしているんでしょうね?
もちろん、ビニールハウスで冬の間も美味しい野菜を育てている農家さんもいたり、切り干し大根や漬物を作ったりと、冬の寒さを利用して野菜を美味しく熟成させているところもあるようですが、私は時々畑に行って様子を見守ることくらいしかできていません。

以前、気になって「冬 農家 何してる?」でキーワード検索をしてみました。すると、出てきた結果には『晴耕雨読』『本を読んで勉強をする』なんてことが書いてある。

「そりゃそうだ!農閑期だからといってジッとしているわけにもいかない!」
そこで、足りない経験値は知識でカバーせねば!と思い、今年の1月『農業検定』なるものにチャレンジしてみました。

作物の育て方や野菜の特徴などはもちろん、『農業』と広く括れば環境問題や食糧問題などもかかわってくる。その辺の知識を問う検定試験。

「正しいものを選べ」「間違っているものを選べ」という選択問題で、これがクセあり、嫌らしさあり、制作者の性格を疑ってしまうほどの難問奇問が勢ぞろい。
気になる方は『農業検定』のホームページをのぞいてみてほしい。
過去問が紹介されています。

受験した3級、2級はなんとか無事合格。
なのでこの冬は1級にチャレンジ。
畑に行く時間が減った分、空いた時間にテキストを眺めながら過去問を解く日々。
さすがは1級。問題のクセと嫌らしさはさらに強さを増している。
問題文の意味すらもチンプンカンプン。
年齢とともに、脳内の記憶メモリも劣化しているし、処理能力も遅く答えが出てこない。

はてさて困った。
試験は再来週に控えている。(結果については後日改めて)

(2020.12.25:コラム/遠藤洋次郎)

第9話 はらぺこあおむし

幼い頃、絵本で読んだ「はらぺこあおむし」

リンゴを食べて、なしを食べて。
ソフトクリームやソーセージまでも。
お腹をこわしたはらぺこあおむしは、緑の葉を食べて…やがてさなぎになり、最後はチョウに変身する。

仕掛け絵本の丸い穴に指を突っ込んで遊んでいたあの頃。
鮮やかな色づかいとあおむしの丸い顔が可愛らしくて。
何度も読み返した僕の大好きな絵本の一つ。
そして今、はらぺこあおむしは、うちの畑にうじゃうじゃいる。
ハクサイやキャベツの葉っぱの奥。
野菜のお布団にくるまれて、寒さをしのいでいるのかな?
緑の葉っぱもたくさん食べて、どんどん大きくなっていく。
立派なチョウになって羽ばたいていくのかな?

そんなはらぺこあおむしを見つけては、つまんでポイッと放り投げる。
野菜作りにおいて、このはらぺこあおむしは敵である。
油断していると、キャベツはあっという間に完食されてしまう。

今年の夏、ポットに植えていたキャベツがようやく芽を出してきたところ、目を離していた隙にすべて食べられてしまった。
悲しいかな。葉脈の部分だけ残された幼いキャベツの葉は、すべての肉を失い骨のようになっていた。

多少の殺虫剤は散布するが、それでも生きるのびるあおむしはたくさんいる。
相手も生きるのに精いっぱい。でもこっちも美味しい野菜作りに常に格闘している。
チョウチョが飛び交う穏やかな田園風景。実はその中に、生き残りをかけた静かなサバイバルゲームが繰り広げられているのだ。
ただ、僕自身、あおむしのフォルムは嫌いじゃない。
むしろ「かわいい」と思ってしまう。
あの絵本の情景と重なるのか。
鮮やかな緑色で、ちょんと指先に乗せるともぞもぞ動き、びっくりして体を丸くする動作も見ていてかわいい。
農園の参加者はみな悲鳴を上げるが、僕はその姿を見つけると、思わず微笑んでしまう。

かわいいけど憎らしい。

キャベツを食べたあおむしはキャベツの味がするというが、さすがにそれをやってみる勇気はない。

(2020.12.18:コラム/遠藤洋次郎)

第8話 指先のにおい

最近の子どもたちは、泥だらけになって遊ぶことはあるのだろうか?

僕も、幼いころは泥だらけになって、膝にすり傷つくって、日が暮れるまで遊びまわっていた。昭和の頃の話である。
作業着を汚さないように、と注意しながら畑仕事をはじめても、結局のところ土がつく。
種もみも、虫もくっついてくる。
こうなるともう着ているものの汚れなどお構いなし。
あの頃のDNAが目を覚まし、土まみれになって鍬を振る。

びっしり汗をかいて、作業着を脱ぐと、作業着には汗のにおいといっしょに、土のにおいやお日様のにおいも染みこんでいる。
畑に行くと、あたりには独特の畑のにおいに包まれている。
鼻が曲がりそうなたい肥のにおいに包まれているときもあるし、果物の甘い香りが漂ってくることもある。
いろんな農作物の植えられた畝の間を歩くときに鼻をかすめる、野菜や果物の青々としたにおいは何ともすがすがしい。
光合成した新鮮な酸素が畑に充満していることも理由の一つかもしれない。

トマトを栽培するとき、「芽かき」という作業を行う。
トマトの実を大きくするために、不用な芽を取り去っていく。できれば伸びてきたばかりの新芽を指でつまんで取り除くのだが、この芽かきをしていると、指先からトマトの香りが漂ってくる。
トマトの甘みは実だけにあるのではなく、茎や芽にも備わっている。
新芽を摘んでいくたびに、指先を鼻に近づけると、指先がトマト味なのだ。

トマトだけに限らず、芽かきや間引きをしていると、その瞬間、ふわっと野菜の香りが鼻先をくすぐる。
そんな香りを嗅ぎながら、
「美味しくなってくれよ」
「大きな実をつけてくれよ」
と、それぞれの野菜の生長を見守っている。

先日、ニンニク畝の雑草取りをした。
ちいさなニンニクのかけらから芽が伸び、春になると花を咲かせる。
花が咲く前に茎を刈り取るのだが、この刈り取った茎も「ニンニクの芽」として香りやシャキシャキ感を楽しめる。
雑草を取りながらふと指先に鼻を近づけると、ほのかなニンニクのにおいが残っている。

思わずその指にむしゃぶりつきたくなる。

(2020.12.11:コラム/遠藤洋次郎)

第7話 忘我の境地

間引きの作業はなかなか好きになれないが、一連の畑仕事の中で好きなのは、耕運機をかけているとき。

ウチの農園では、夏野菜の収穫に向けて春に畑を耕す。
雪の季節が終わり、降りそそぐ陽射しが少しずつ暖かくなり、土も乾いてきた頃。雑草を刈って、鍬を動かし、そして耕運機を使って一気に耕す。
農園の土は固いので、何度か耕さなければならない。

ちなみに「耕す」。
新潟では「ぶつ」というらしい
なので、以後「耕す」ことを「ぶつ」と言うことにする。

耕運機の動くペースでゆっくり畑に入り、土をほじくり返していく。
ハンドルを操作し、端っこまでぶったら折り返して戻って来る。
この時間、完全に「忘我の境地」すなわち「アタマの中がカラッポ」なのだ。
悩んでいたことも、気にかけていたことも、今日の夕ご飯のことも、すべてが忘却の彼方に行ってしまい、魂は抜け、肉体はただ耕運機のハンドルを握るのみ。
もちろん、ハンドル操作を誤ってはいけないが、足元を見つめ、進むべき先を見つめ、ゆっくりと、慎重にぶっていく。耕運機が回るエンジンの振動も心地よい。

ぶっていきながら、立ちのぼる土のかおりを嗅ぐ。
このかおりを胸いっぱいに吸い込んでいく。
すると、心の中のモヤモヤも消え、すがすがしい気持ちに包まれる。
農園の土をぜんぶぶち終えたときの達成感もまた格別だ。

「ここにトマトを植えよう。」
「ここにはトウモロコシを植えてみよう。」
「エダマメの畝はここに作ろう。」
そんなことを思い描きながら、ぶち上げた土を見つめる。
(「ぶち上げる」という言葉があるのかどうかは知らない。)

同じ耕運機を使って畝づくりもする。
まっすぐに延びる畝をつくりたい。このとき、先の目標に向かって、ゆがまないよう慎重に耕運機を動かしていく。
邪念が入ると畝は曲がってしまう。
余計なことを考えると、ハンドルは右にとられ左にとられ、くねくねした畝になってしまう。
心を無に、アタマをカラッポに、ただ一心、畝をまっすぐ作ることに専念すればよい。

できあがった畝をぜひ見てほしい。だいぶ曲がっている。

(2020.12.04:コラム/遠藤洋次郎)

第6話 間引きの作業がイヤ

正直なところ、「間引き」の作業がイヤだ。

「間引き」とは、苗が密集して伸びてしまい、土の中で栄養の取り合いになるから、元気な苗だけを残し、ほかの苗を取り去っていく作業のこと。
今の時期は、ダイコンやカブ、ニンジン、チンゲンサイやホウレンソウといった作物を大きくするために、畑にいってはこの「間引き」の作業を行っている。

一つの苗を大きくするために、他の苗を犠牲にする。
心が痛むのだ。
こんな感情が湧きあがるのは、自分のこれまでの生い立ちが重なってくるから。やっと芽を出したのに。ここまで大きくなったのに。
もっと美味しくなるかもしれないのに…。
他の苗が、自分より少し元気がいいからって、なぜ自分が引っこ抜かれなきゃならないのか。

「不条理だ!納得いかない。僕だってこれからもっと大きくなる可能性を秘めている…もっと美味しくなるかもしれなっ…ギャアアアアアアアア!」

間引いた苗を手にすると、まだ伸びきっていない細くて白い根っこに、少しだけ土が残っている。細い根っこから栄養を吸って、生きよう、伸びようという思いがうかがえる。

「残念だが…僕の成長はここまでだ。残ったやつは、これからもっと大きくなる、もっと美味しくなる。やつのことを…頼む。ガクッ」

「なぁぁぁぁえぇぇぇぇぇぇぇ!」

そんなシーンを勝手に想像して、目頭を熱くしている。

農作業をしていても、人間世界と同様に、生き残るための「競争」というのはついてまわるものなのだと、しみじみ感じる。
僕自身これまでも、いろいろなところで間引かれてきた。
受験や就職試験、いろんなオーディション。
仕事も恋愛の経験も、「この人はダメ」といわれ放り投げだされることも多々あった。
それでも、今、この場所で根を張って生きているわけだから、人として大きく、美味しくなっている部分もあるんじゃないかな?

あと、午前中に間引いてきたチンゲンサイは、炒め物にして美味しくいただきました。

(2020.11.27:コラム/遠藤洋次郎)

第5話 何事もタイミング!?

今年の農園のハクサイは順調に大きくなっている。
「こんなに小さな葉っぱだったお前が、よくここまで大きくなったもんだ。うんうん。」
わが子の成長を見守る親心にも似た思い。
そんなまなざしでハクサイを見つめている。

去年のハクサイづくりは思うようにいかず、葉っぱは大きくなったけれども結球(葉っぱが丸まってボール状になっていく)しなかった。
気象条件などもあったが、種を蒔くタイミングを間違えていたのも原因の一つ。
今年は、ここだ!というタイミングで種を蒔き、今のところ天気の影響を大きく受けることもなく、大きくなっている。

さて問題は、どのタイミングで収穫しようか?と言うことである。

日に日に寒くなり、お鍋の恋しい季節である。
自分たちの育ててきたハクサイを、ドーンとお鍋に放り込んで、熱々のところをいただきたい。

寄せ鍋、水炊き、キムチ鍋、カモ鍋、石狩鍋、ミルフィーユ鍋。
土鍋から湧き上がる白い湯気。
出汁や具材の茹で上がるクツクツという音。
鍋恋しさに、脳裏には鍋を囲む食卓の風景が広がる。

「よし、今夜の鍋の主役は君だ!」
そう思って一つのハクサイに手を伸ばしたところ、知り合いの農家さんに
「それ、まだ大きくなるよ。残しておいた方がいい。」
と言われた。
「じゃあ、君だ!」
「ああ、それももうちょっと丸くなる。あとちょっとだな。」
「う~ん…じゃあ…。」

種を蒔くタイミングも重要であるが、収穫するタイミングも重要である。

このタイミングを逸してしまうと、美味しさの旬を逃してしまう。
物事には「今だ!」という瞬間がある。
「今がこのとき」という絶好のタイミング。
だから慌ててもしょうがないし、そうかと言って、のんびりもしていられない。
頭の中に「究極の鍋料理」の姿をイメージしながら、今日もハクサイの様子を観察する。
結球の引き締まり具合はどうか?
重さは?硬さは?
じっと、その瞬間を待ち構える。

「まだだ。もう少し大きくなる。いや、今じゃないのか?コレはイケるんじゃないか?」

ハクサイに囲まれた畑のまん中で、今日も一人、そんな葛藤を繰り返している。

(2020.11.20:コラム/遠藤洋次郎)

第4話 見てくれはアレだけれども

なんともいとおしい「地球外生命ダイコン」を掘り出した前回のお話でしたが、葉っぱの部分はおひたしにして、皮の部分はきんぴらに、そして実の部分はお味噌汁の具になり、すべて美味しくいただきました。

ただ、このダイコンが売り物になるか?といわれると、厳しい。
スーパーに並んでいるダイコン、青果店に並んでいるダイコン、隣の畑のダイコン。
眺めてみれば見事にスラっとした美人さんばかり。

ダイコンの絵を描いてみよう!
といわれたら多くの人は、「¥」こんな感じの絵を描く。
「ξ」こうは描かない。
「ξ」なダイコンは商品としては失敗だ。

失敗の経験は、もちろん次に生かさなければならない。

土づくりや種の蒔きかた、種を蒔くタイミングやその後のケアなど、ネットで調べてみたり、本を読んでみたり、近所の農家さんに聞いてみたりする。
もちろん、自然相手なので、次にうまくいくという保証はない。

なんで?どうして?水が足りない?台風のせい?
畑仕事に携わるのであれば、このトライ&エラーは毎年の起こりうることである。
おかげさまで、私の農園に参加しているみなさんは、採れた野菜を見ては大笑いする。

「ダイコン曲がってる(笑)」
「ズッキーニでかっ!(笑)」
「ハクサイに青虫いた!(笑)」
「ミミズ!(笑)」
「ナメクジ!(笑)」
みんな笑っている。

採れた野菜は持ち帰り、みなさんそれぞれ調理して、次に会う時にはどうやって食べたかの話題で盛り上がる。

「見てくれはアレだったけど、炒めたらおいしかった。」
「見てくれはアレだったけど、パスタに和えてみた。」
『見てくれはアレ』であっても、口に入ればどれも美味しい。
ましてや自分たちが育ててきたものとなると、味わいもひとしおだ。

どんなカタチの野菜であっても『失敗』はない。
と、いつだったか近所のおじさんがそう言ってくれた。
なので私も「美味しく食べられれば、立派なお野菜!」と思うことにしている。

でも、農園の管理人としては『見てくれはアレ』を何とかしたいものだけれども…。

(2020.11.13:コラム/遠藤洋次郎)

第3話 必死で生きている

夏に植えたダイコンが、やんちゃに育っている。
葉は青々と茂り、首元も青く、そして朝露に照らされキラキラ輝く純白のボディ。
いざ、掘り出してみると…

「!!!???」

二股、三股。
いや、これはもはや、足のこんがらがった、ダイコンには程遠い「地球外生命体」である。

土の中に小石があったりすると、生長の途中で根が分かれていき、あたかもそれが人間の足のように見える。
白いおみ足は、美しい女性を連想させるので、
私はそれを「Sexy Daikon」と呼んでいるが、
今回のダイコンにはみじんもSexyさは感じられない。

その原因を自分なりに考えてみた。

夏野菜を育てるときに、畑にじかに種を蒔くよりも、一回、育苗ポットに種を蒔いて、苗をつくり、苗が育ってきたところで畑に植える。
これが割と成功したので、ハクサイやキャベツ同様にダイコンもポット苗を作ってみた。
ほどよく葉が伸びたところで畑に植え替えたのだが、育て方の資料などを後になって読んでみると、ダイコンなどの「根」を育てるものは、植え替え厳禁なのだそうな。

「ようし!下に根をのばすぞ!」
と思っていたことろに、急に土の環境が変わると、

「ん?どっちに根をのばしたらいい?こっち?それともこっち?」
と戸惑うのだろう。

「オレ、こっちに伸びていくから、お前こっちに伸びていってくれよ!」
そんなダイコンの思惑も感じられる。

と、こんなことを書いていたら映画にもなったマンガ「寄生獣」を思い出した。

地球外生命体が人間の体内に乗り移り、意思を持ち、人間世界をパニックに陥れるというマンガ。主人公に寄生した生命体「ミギー」は生き残るために主人公の右手と共存していく道を選んだが…

今回掘り出してきたダイコンを眺めていると、彼らも生きていくために、生長していくために、必死なんだと言うことをひしひしと感じる。

そして、必死で生きようとする姿は、何ともいとおしい。

(2020.11.06:コラム/遠藤洋次郎)

第2話 エダマメでハーレム

エダマメに完全に胃袋をつかまれた!

新潟は食の宝庫。
もちろん『コシヒカリ』はその代表格だが、それぞれの市町村に、特色を持った美味しい食材があふれている。
東京へ帰れなくなってしまった原因の一つにこの新潟の『食』の豊かさがあることは否定できない。

なかでも『エダマメ』である。

新潟はエダマメの作付面積全国1位。
にもかかわらず、出荷額は全国7位。
つまり、新潟の人はつくったエダマメを独りじめする傾向にあるといえるだろう。
これは、私の居酒屋での注文の仕方にも当てはまる。
エダマメ一皿を、みんなでシェアすることはない。
一人一皿。
私の目の前に、エダマメ一皿がないとどうにも落ち着かない。
そして、黙々と食べながらビールを流し込む。至福の瞬間だ。
ああ、もう…
こうやって『エダマメ』と書いているだけで、唾液がたまってくる。

「新潟のエダマメは美味しい。それならば、自分でエダマメを育てればいいんだ!」

というわけで、農業を始めてから毎年エダマメを育てている。
さまざまな種類のエダマメは、その名前もユニークだ。

以前、ラジオの番組で農業に関するクイズを出題するというコーナーをやってみた。
その時出した問題。

————————————————————————
【ようじろうが今年育てたエダマメは次のうちどれ?】

1、越後姫
2、ゆあがり娘
3、ようじろうの嫁
————————————————————————

正解は2の「ゆあがり娘」

何とも艶っぽい、むしゃぶりつきたくなる名前じゃないか!
他にも「弥彦娘」「おつな姫」など、女の子の名前がついているものも多い。

その時、リスナーから、
「『ようじろうの嫁』を育ててみてはいかがでしょう?」
というメッセージが届いた。

「きっと『ようじろうの嫁』は実がふっくらしていて、甘みもあり、ナイスバディのエダマメに違いありません!」
もちろん『ようじろうの嫁』という品種はないが、来年はぜひ、実がふっくらしていて、甘みもある、ボンキュボンキュボン(豆は3つ)のナイスバディのエダマメを作ってみたい!

ついでに『ようじろうの恋人』『ようじろうの娘』『ようじろうの愛人』もつくって。
エダマメに囲まれたハーレムをつくるのだ!

(2020.10.30:コラム/遠藤洋次郎)

第1話 蒔かぬ種は生えぬ

この歳になって、畑を耕すことになるとは思わなかった。

20年前のようじろう青年に、
「君は20年後にクワ持って畑耕してるよ」
と伝えたところで、
「そんなことするわけないじゃん」
と笑って答えるに違いない。

ハクサイ、キャベツ、ダイコン、ニンジン、カブ、ホウレンソウ。
今の時期、僕は、これらの野菜の生長を見守っている。

本音を申せば、農業をやってみたいと思ったこともなければ、これまでも農業に携わったこともない。
土をいじったことがあるのは、小学生の頃のアサガオくらい。
それだって、観察日記を書かなきゃならないからしょうがなく育て、夏の旅行から帰ったら全部枯れていた。
なんだか切ない観察日記を提出したような気もする。

農業に対するイメージだって
「キツい」「汚い」「朝早い」
のマイナスのものばかり。
思い描いていた人生の青写真に『農業』というワードはこれっぽっちもなかった。

そこに訪れた人生の転換期。

やむにやまれぬ事情があって、昨今問題になっている、耕作放棄地を何とかしなきゃならないということもあって、
「えー・・・じゃあ、ちょっと土いじるだけですよ」
と、砂場遊びセットのようなスコップとバケツを持って、雑草ばかりの畑に行った。
それはまるで、
「えー・・・じゃあ、ちょっと一杯飲むだけですよ」
と、知らない土地の、怪しいスナックに連れていかれた気分であった。

それがどうだろう。
今朝もハクサイに
「おはよう」などと声をかけている。
「くたばれ、このアザミウマーーーー!」
と、害虫の知識も増えた。
『ちっ素』『リン酸』『カリウム』
なんて言葉を、中学生の理科の勉強の時以来口にしている。

農作業が楽しいか?
と問われれば、今もまだ何とも言えない。
楽しいと思うこともあるが、もちろん辛いこともあるし、メンドクサイと思うこともある。
ちゃんと育てられるか、ちゃんと稼げるのか?
このあたりも不安定だ。

『蒔かぬ種は生えぬ』

とにかく、まず種を蒔かなければ始まらない。
やってみなけりゃ分からない。
チャレンジすることにちょっと臆病にもなるお年頃。

でもこの歳になって改めて
「やってみなけりゃ分からない」ことを始めたことは、「何とも刺激的な体験だなぁ…」と、
野菜を眺めながらしみじみ思ったりもする。

(2020.10.23:コラム/遠藤洋次郎)